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”叩くしつけ”について。

この間観たTV番組、恐ろしいと思いました。

”子どものしつけのためには叩いた方がいい”
というような内容。Webの情報でも散見しましたね。

そして、それに対して
”やっぱりそうなんだ”と思う人もいるようです。

私はそのことに”やっぱりなぁ”と思いました。

感情的に叱ったり、叩くことをやめられないけれど、
そのことに向き合わず目を背けていたい親にとっては、
格好の理由付けになるだろうなぁと思っていたのすが、
やっぱりそう思う人もいたようです。

本当におそろしいです。

何やら、研究で調べたようなのですが、
叩かれた人と叩かれてない人、という
2者択一の調査方法だったようで、
「ええーーーーッ?!そんな調べ方?」
とビックリ仰天。

なんだか、例えば
「関西の人は、関東の人に比べて
会話にオチをつけることが多い。」
というような大雑把な調査だなぁと。

すごくデリケートで、かつ子どもの人格形成に
関わるくらいの大きな問題にもかかわらず。

しかもその調査では、
叩かれずに育った人は、そうでない人に比べて
”精神的な問題を抱えやすい”というのです。

・・脱力してしまいました。

人が心に傷を負う理由というのは、
本当にさまざまです。
例えば、たとえ叩かれていなくても、
こちらで紹介しているような否定的ストロークなど、
”精神的な問題を抱える”関わりというのは多々あります。

それを、『叩かれた・叩かれていない』
というようなたった二つの選択肢で
片付けようとする、乱暴さ。

私自身が、叩かれ、感情的に叱られて育ち、
30過ぎて”精神的な問題を抱えて”しまい、
それはそれは苦労したのですけれど・・

そしてまた、それらを改善し、
生きる力を取り戻すための
セミナーやグループワークなどで、
同じような理由で”精神的な問題を抱えて”
いる人たちをたくさん見て来たのですけれど・・

そういう私からすると、
何と恐ろしい可能性を生むことを
無責任に勧めるのだろう、と。


そのような生育歴を持つ人たちの中には、
「親もまた精神的に追いつめられ、
適切な関わりをする余裕がなかったのだ」
と境界線を引き、
「自分自身は同じことを繰り返したくない、世代間連鎖を断ち切りたい」
と願い、自分自身を見つめようとされている人がいます。
私もそうです。

しかしまた一方で、
叩かれ、感情的に叱られて育ったことを
「それは私がわるかったのだ。
親は私のためを思って叱ってくれたのだ」
というふうに解釈する人たちが少なくなくいることも知っています。

カウンセラーさんによると、
「そのように解釈しなくてはその人が立ち行かない」からだそうです。
親は、私のことを思ってくれていたのではない
(自分の存在確認のため、子どもを道具にしていた)

などと認識したら生きてゆけないからだ、と。

また、森田ゆりさんの著書
しつけと体罰ー子どもの内なる力を育てる道すじにも、
「体罰は自分がわるかったからで、仕方がない」
と思う人についての記述があります。

自分に向き合う力が奪われているかいないかで、
その人の解釈、人権感覚そのものが変わるんだなと思います。


暴力(体罰)は、受け続けると慣れてしまい、
暴力を暴力と感じる力が育まれなくなります。
危険察知能力が育たないのです。

暴力を受け、心に傷を受けていても、
「こんなことはたいしたことではない」
「よくあることだ」というふうに
傷つき体験とそれに伴う感情を
抑圧してしまうのです。

感情の抑圧は、”精神的な問題を抱える”
ことに繋がります。

詳しくは、森田ゆりさんの著書
しつけと体罰ー子どもの内なる力を育てる道すじにありますが、
”しつけとして叩く”ことの弊害は、計り知れません。

そのテレビ番組では、
「度を超えた体罰はよくない」
というようなテロップが出ていましたが、
虐待をしつけと言ってしまうような人にとっては
度を超えた体罰でもしつけであるわけで、
そんな尺度は人によって異なるあいまいなものです。

いくら「これはしつけだ」と親が思っていても、
受けた子どもの心が傷つき自己肯定感を奪われたなら、
それは不適切な関わりであるということだと思います。

「これくらいは体罰でも虐待でもない、しつけの範囲」
という人の理論は、ストーカーのそれと同じだと思います。

つきまとい行為などに相手が恐怖を感じ、傷ついていても、
「あなたを愛しているから、あなたのためにやった」と言う。
しつけとして行われる体罰を、「あなたを思ってしたのだ」と言う。
子どもが傷つき、恐怖を感じていても。

この場合に、ストーカーよりもわかりにくいのは、
子どもも、愛情飢餓を感じているので、
上記に書いたように、「これは親が私を思ってしてくれたのだ」
と自分で自分に思い込ませてしまうことです。

そして自身も親になった時、
同じ理由で子どもに同じことをする。
生きるために必要な自己肯定感を奪う、
否定的ストロークを”良かれと思って”行うのです。

怖いです。

しつけと体罰―子どもの内なる力を育てる道すじ

森田 ゆり / 童話館出版

スコア:



しつけと体罰ー子どもの内なる力を育てる道すじより〜

■体罰は、それをしている大人の感情のはけ口である事が多い。

■体罰は、恐怖感を与えることでこどもの言動をコントロールする方法である。
 
■体罰は即効性があるので、他のしつけの方法が分からなくなる。
 
■体罰は、しばしばエスカレートする。
  
■体罰はそれを見ている他の子に心理的ダメージを与える。

■体罰は、時に取り返しのつかない事故を引き起こす。



こちらの著書によれば、
スウェーデンでは、1978年に体罰禁止例が制定されたそうです。
当時は70%の人がその法律に反対していましたが、
今日では10%が反対しているに過ぎず、
”体罰をする習慣”と”それを容認する意識”をなくすことに
成功しているそうです。素晴らしいと思います。


体罰とその傷つき体験に苦しみ、
自身の健康を長い時間経ってから損なうという、
私のような大人が、本当に、これ以上、増えませんように。
負の連鎖が断ち切られていきますように。

奪われたものは、いつからでも取り戻せるのです。

オレンジさんのこちらの記事”叩くしつけの本当のこと”
にもこのことについて書かれていますので、
ぜひお読みいただきたいです。



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by cherish-chu | 2010-01-30 20:54 | こころについて

山あり谷あり

人生、山あり谷あり ーー。

巨大な壁にぶちあたったとき、
その当時は谷底に落とされたように感じていた。

今は、あの時は急な上り坂の入り口にさしかかったのだ、と思う。

登ったことのない、そびえ立つ山の入り口。
経験したことのない登り方。
途方に暮れて。


それでもなんとか休み休み登ることができた。
助けを借りて。


ひとつ山を登ると、景色が一変する。
登るあいだにものの見方が変わっているから。


180度変わると、とても面白い。
変わる前の見方も知っているので、
尚更、面白い。


現状はというと、
なだらかな坂の途中をのんびりと歩いている、
そんな感覚。

少し急な、短い坂があったり、
その坂を登るために寝転がって休んだり。
時には転んだ痛みを慰めてもらったり。


少しずつ、少しずつ登っていくたび、
新たに見えてくる景色を想像して
わくわく、ドキドキ心躍らせる。

その気持ちが更に足を前に運ばせる。

少し急な坂を登りきった時の達成感を喜ぶ。

そんなことの繰り返し。


旅の糧は、希望、共感、愛情。


そして、心と身体を支える基盤は、
”人生は自分自身でコントロールが可能である”
という自分への信頼・信念である。



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by cherish-chu | 2010-01-21 00:36 | 気持ち

おめでとうございます♪


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あけましておめでとうございます。

皆様にとって素晴らしい一年となりますように。

今年もどうぞよろしくお願いしますemoticon-0157-sun.gif


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by cherish-chu | 2010-01-01 14:13 | 今日の作品