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森田ゆりさんのお話を聴いてきましたー!!

森田ゆりさん(エンパワメントセンター主宰)の講演を聴いてきました!

「暴力と子ども〜子どもを支えるときのために〜」
というタイトルで、参加者は育児支援をされている
方が多かったようです。

ゆりさんはあいかわらずパワフルであたたかく、
2時間のお話を聴くうちに、どんどん
エンパワメントされていくのを感じました。

声のトーンや話し方、言葉の選び方など、
本当に的確で素晴らしい。

更に嬉しかったのは、
講演が終わったあとの休憩時間、
ゆりさんの方から声をかけてくださり、
ハグしてくださったこと!

その瞬間の記憶は
私にとっての宝物になりました016.gif

この先何かあったとき、
あの瞬間に流れたものを憶い出すことで
立ち上がることができるほどのパワーを
いただいたと思います。

愛と平和に溢れ、エゴを超えた
自己超越の人のエネルギーの凄さを、
改めて実感しました。

森田ゆりさんのお話を聴いていつも思うのは、
うまく表現できないのですが、
本当に”その人そのもの”を尊重している、
人の本質を見ている、知っている人である、
ということです。

だからこそ、その場にいる人が、
”ありのままの自分を認めてもらっている”
という何にも代え難い”尊厳”を取戻すことができる。
あるいは忘れていたそのことに気づくことができる。
自分にはそんなものない、と思っていた人も、
私にもあったんだ!と思える。

それは本当に、歓喜の瞬間です。

それこそが”生きる喜び”というものだと思います。

人を責めない。
批判しない。
評価しない。

手当てし、見守り、希望を与える。

人を尊重する、というのはこういうことだ、
ということをゆりさんを通じて実感できるのです。

058.gif森田ゆりさんのお話から058.gif

■人が困ったり、弱っていたり、傷ついている時は、
生きる力としての”人権”が揺らいでいる、弱まっているということ。

■人権は、人が生きるためになくてはならない力。

■人の生きる力としての人権とは
・”安心”
・私は私であるだけで
じゅうぶん素晴らしい存在であるという”自信”
・自分で選べるという”自由”。
(選択したことがもしうまくいかなくても自分で引き受けていく
という自由であり、勝手気ままということではない)

■人のしあわせとは何か
・愛し愛されること
・褒められ、褒めること
・人の役に立ち、手助けされること

■虐待・DV被害者の共通点
・誰にも言えないこと
・無力感(どうせ何をしても無駄)

■一人でいることがトラウマを形成する
(シャンドール・フィレンツィ著 『臨床日記』 )

■怒りの仮面
・怒りには2種類ある
不当な扱いは許せないという一次的感情としての健康で大切な怒り。
もうひとつは、二次的感情としての怒り→怒りの仮面

・仮面の裏側にあるもの→傷つき体験からくる感情
恐れ 
不安 
見捨てられ不安
悲しさ
寂しさ
悔しさ
絶望
自信のなさ
喪失感

■心の応急手当て
誰かが手を当ててくれることによって、
その人の”自然治癒力”が活性化する。

■すべての人が自然治癒力を持っている。
当人しか、自分を変えられない。

■大人が子どもにあげることのできる最良の贈り物
”聴くこと”  (尋ねるよりも、聞くよりも)
・能動的傾聴・共感的傾聴・反復的傾聴・具体的傾聴

・「なぜそうなったのかな?」
「どうしてお父さんはそんなに怒ったんだろう?」など
”なぜ””どうして”の質問はなるべく使わない→批判になるから。

■能動的傾聴
相手が、”聴いてもらっている”とわかること
”あなたのことに興味があります”ということが相手に伝わること。


心に栄養をたくさんいただきました。

本当に素晴らしかったです。いつもありがとうございます!
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by cherish-chu | 2010-02-21 16:11 | スゴい人

自分自身への認識

欲求段階説のアブラハム・マズローの言葉に、
『ある人間を変えるのに必要なことは、
その人の自分自身に対する認識を変えることである。』

とあります。

機能不全家庭で育つと、
この”自分自身への認識”が
歪んでしまうこともあるようです。

親からの不適切な関わりが日常だと、
子どもにとっては”不適切=標準” になるので、
外部からの言葉の暴力やハラスメントなど、
あらゆるコミュニケーション不全に対して、
”危険”を感じ取る力が鈍感になってしまいます。

なので、
”受けなくてもいい暴力(言葉も含む)”や、
”背負わなくていい荷物”を

”受け止めてあげなくては”と、
”背負うものである”ように認識し、

更には
”そうしなくては冷たいと思われるのでは”や、
暴力に対して”逃げずに向き合わなければ”などと
自身を守ることとは逆の発想をしてしまうこともあるようです。

そうすると、必ずそれはストレスとして溜まり、
自身も気づかないうちに周囲にまき散らし、
あるいはそれに気づいていても、止められなくなります。

親との不適切な関わりの再現を行ってしまうのです。

溜まったストレスは外へ出す必要がありますが、
所かまわず相手かまわず出してしまうのでは、
その行為自体が”不適切”です。

しかし、自分自身への認識が歪み、
”今の自分ができる範囲”を超えたことをして一杯いっぱいなので、
”周囲に配慮する”ということができないんですよね。

そのような時には、自分が想像する以上に
”怒り”は外に漏れています。

まるで”怒りのオーラ”をまとっているかのように。

そして、いつも、一番の被害者は、子どもです。

子どもは、親の様子に驚くほど敏感です。
機嫌がよくないと察すると、
”自分の言いたいことは後回し”にします。

機嫌がよくないときにかまってもらおうとすると、
怒られることを知っています。
見捨てられるかもしれない恐怖もあります。

それでも、潜在的な欲求は働くので、
注目してもらえるように問題行動を起こしたり、
あるいは、体調を崩しがちだったり怪我が多かったり、
というようなこともあるようです。

親は、いっぱいいっぱいで気づかない。

子どもの気持ちは、溜まっていきます。


不適切な環境で育ち、生きる力を奪われて来た人は、
”やる気”や”自主性・主体性”といったエネルギーと同じように、

”物事を、ありのまま、そのままに捉える視点”と言うようなもの、
それをも奪われている、ということも忘れないようにしたいですよね。

認知の歪みと同じようなことで、
生活が習慣付けられる子ども時代に、
”白”のものを、”これは黒だ”と強制的に
長期に渡り思い込まされて来たようなものなので、
やはり、定期的、長期的に、
専門家の力を借りて歪みを修正していく、
それくらいのことだと私は認識していて、
今でも、何かあれば自身の認識をカウンセラーさんなど
”ありのままを見ることが習慣づいている人”に
確認したり聴いてもらったりしています。

そして、
余分な荷物は背負わずに済むように、
依存傾向が強いとか、怒りやストレスをまき散らす
けれどもそのような自分に自覚がない、
あるいは自覚していてもそれを変えようとしない、
そういう人には近寄らない・逃げるようにしています。

それは徹底しています。
これ以上そのような人と関わりたくないのもあるし、
そのような人と関わっていると、
不適切な環境でつくられた脳の回路が
強化されるようなものだと思うからです。


新たに、互いに尊重し、共存するという
コミュニケーション回路をつくるためには、
実際にそのような人と関わっていくことだと思います。
実践することで身に付いていくんですよね。

もってうまれた生きる力を、大切に育みたいですよね。
いつからでも、遅いということはないのですから。


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by cherish-chu | 2010-02-13 23:00 | こころについて

圧倒的な存在感、自己超越の人

「個展 忌野清志郎の世界」に行って来ました。

まず入り口はいってすぐの写真に
胸をどーんと突かれました。

とにかくものすごい存在感。
写真も、衣装も、絵画も、
ただただ圧倒的な存在感を放っているのです。

それは、奇抜だから目立つとかそういうのではないです。

ありのままを、堂々と、自信を持ってさらけ出すという、
”その人そのもののがあらわれていること”が持つ存在感です。

カッコつけたり、ごまかしたりしない、その真っ直ぐさが、
文字どおりストレートに観る人の胸を突くのだと思います。



その圧倒的なエネルギーの凄さに、展示を一周する頃には
すっかり胸が一杯になっていました。

ひとつひとつが、胸に迫るのは、もちろん威圧ではありません。
”ありのまま”の力とでもいうのでしょうか。

その人が”ありのままで有る”ということは、
その他の人に対する”あなたのままでいいんだよ”
というメッセージでもあるのです。

そのような暖かみ、包容力、あふれる愛が、
凝縮され包み込まれているのでした。

なかでも印象的だったのが、
自画像です。

清志郎さんが
高校時代に描いた作品は、
顔の中に目・鼻・口などの
パーツがないものでした。

その隣にある、
すっかり大人になり
スターになった
清志郎さんの自画像は、
くっきりとしっかりと
目や鼻、口が描かれており、


その対比がなんだか一人の人の成長や生き様を
象徴しているようで、自画像の目ヂカラと共に
すごく心に焼き付いています。

清志郎さんの作品を観て、
私がひとつ腑に落ちたこと
があります。

それは、会場で流れている
映像を観て、また涙が
溢れて来たのですが、

私は、誰かの歌を聴いて、
こんなふうに歌いたい、
とやる気が出たり、
素晴らしい歌声に
鳥肌が立ち感動したり、


一緒に歌い出したり踊り出すことは多々あっても、
”癒されて涙する”ようなことは
かつてなかったように思うのですが、
清志郎さんの歌に関しては、
懐かしいような感情と共に
心が解きほぐされ、涙することが多々あるのです。

自分でも、なんでかなー?と思っていたら
今日、”ああ、そうか”と思いました。

清志郎さんは、”自己超越”の人だからだ、と思ったのです。


トランスパーソナル心理学や
マズローの欲求段階説など
にある、自己実現のさらに
高次な段階に進み、
自分の欲(エゴ)を超え
”いのちの働き”に目覚め、
使命を成し遂げようと
生きた人なのだ、と。

自己実現の人はたくさんいると思うのですが、
自己超越の人は、自分の欲を超えて
人々のために動くだけの自己が確立されている人
ですから、なかなかいないですよね。

そのような、言わば”大いなる愛の力”が心の琴線に触れるのだな、と。

ぼんやりと感じていたことですが、
更にハッキリと形になり、スッキリしました。

たくさんの”愛”をもらったように思います。
本当にありがたかった。いつもありがとうございます。
行ってよかったです。


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by cherish-chu | 2010-02-10 16:02 | スゴい人

もったいない・・!

先日、中学生の合唱を聴いたんです。
彼らの歌は、私にはSOSに聴こえました。

「私たちは、放ったらかされてる!!」
「誰か私の話を聴いて!!」
「私を認めて!!」

そんな叫びが聴こえて来そうでした。

”大きな声で元気よく”と指導されていたようで、
本当によく声が出ていました。

その大きな声に、子どもたちのレジリアンシーを感じたのです。

抑圧を跳ね返す、心の弾力性です。

これだけのエネルギーがあるなら、
適切な歌い方、表現方法を知れば、
もっともっと伸びていただろうと思うと、
本当に、”もったいない!!”と思いました。

歌の内容によって、強弱をつけたり、
のどを痛めないようにお腹から声を出したり、
というようなことは教わらず、
ただただ”大きな声で元気よく”
ということだったようです。

子どもたちに、本当に申し訳ない気持ちになりました。

そんな子どもたちを、一部の(?)大人たちは
「主体性がない」「やる気がない」と責め、
子どもに問題があるかのように言いますよね。

違うよね。
主体性や、やる気を潰しているのは誰?って言いたいよね。
みんなほんとにそんな中、頑張っているんだよね。

そんなふうに思いました。

子どもに成長して欲しかったら、
まず大人が成長することですよね。


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by cherish-chu | 2010-02-08 12:53 | こころについて

わがままと罪悪感

”うちの子はわがままで困る”という表現。

このように表現する人は、
”わがままはよくないこと”と思っているんでしょうね。

だけど、この場合のわがままとは、例えばどんなこと?
とよくよく聞いてみると、どうやら

「言うことを聞かない」ということのようです。

ごはんを食べたくないとか、歯磨きがイヤとか、
親が言うことと違うことを子どもがしたがるので、
思うようにならなくて困る、ということです。

果たしてそれが本当に、”わがまま”なんでしょうか・・?

違うと思います。そして、これら子どもの”自己主張”を
親が”わがまま”として、”わるいこと”のように認識して
子どもと関わっていると、大きな弊害があります。

それが”罪悪感”です。
わるくすると一生つきまとい、本人を縛り苦しめる。
それほどの問題を孕んでいるのです。

子どもは、どんなに小さな赤ちゃんでも、
親とは違う人格を持ち、違う人生を生きる、別の人間。
ですから子どもが親の思う通りにならないのは、当たり前なんですよね。
今では、むしろ何でも親の言うことを聞く子どもの方が危ないと言われています。

なので、自分の思いと違うことを言う(ごはんを食べたくない等)
のは、子どもの”自己主張”、というか有り体に言えば
「その時の自分の意見(気持ち)を言っただけ」だと思うのです。
それを「わがままだ!言うことを聞きなさい!」と
してしまうのは、やはりあまりにも理不尽だと私は思うのです。

さすがに今はずいぶん少なくなったと思いたいですが、
「親に養われているのだから言うことを聞いて当然」
という考えの方もいますね。
私は全くそうは思いません。
子どもにも、人権があるのです。安心して安全に生きる権利。
養われているからと言って親の機嫌を伺って生きるのは、
安心や安全を保証されているとは思えません。
あまりに卑屈で、その環境ではいろいろと歪んで苦労しそうに思います。


そのように、意見を言うと”わがまま”だ、と、
”わるいこと”のように非難され続けるとどうなるかというと、

意見を言う(自己主張する)=わるいこと

のように刷り込まれてしまいます。

それでも意見を言うように言われて
無理をしてでも自己主張するようなものなら、

「言い過ぎたのではないか?」
「こんなことを言っていいのだろうか」
「わがままと思われたのではないだろうか」

などという持たなくてもいい罪悪感を
抱え込むようになってしまうこともあるのです。
全く”要らないモノ”ですよね。
余計な荷物です。


まず、自分の意見を持つこと自体が”わるいこと”
のような潜在意識があるので、自分で感じ、考えて動く、
という生きる力を伸ばす機会がどんどん失われていきます。
”主体性”というものが失われていくのでしょう。

そうすると、指示されないと動けなくなりますよね。
自分で動いたら、怒られるかもしれない、
というこれまでの経験から来る恐怖感もあって、
自分からは行動できないので、誰かが動くのを待っている、
というような。わりとよくみる光景かもしれません。


また、自己主張できないし、自分からは動けないので、
”みんなと同じだと安心”です。
だから、人と違うことをする人を許せないような
気持ちになることもあるでしょう。
いじめの原因になるかもしれません。


自己主張する人、人と違うことができる人は、
自分が”わがままだ・わるいことだ”と言われて
できなかったことを、やすやすとやっているのです。
インナーチャイルド(IC)が怒り出します。

「わたしはできなかったのに!」

・・それは、子どもに対しても同じことですね。
自分ができなかったこと(自己主張)をする子どもに対して
ICが嫉妬し、ザワザワしたり腹が立つこともあるでしょう。
子どもの言動を受け止められない原因のひとつかもしれません。


わたしが学習したことは、

”わがまま”は”我が侭”
つまり、”わたしのまま”ということ。

それは何もわるいことではないんですよね。
わたしのままでいることは、何より素晴らしいことなんです。

言う通りにならないといって責めたり抑え付けたりするのは、
人の生きる力を奪う、負の世代関連鎖のやり方です。

大人同士でなら、そうするように、話し合って決めることもできるのです。
子どもにも、その力はあります。
むしろ、こちらがそのように関われば、子どもの方が
私たちより高い問題解決能力を発揮することも多いくらいです。


気持ちのまま=私の気持ちのまま=我が侭
を、責めないであげて欲しいです。

気持ちを表現すること(自己主張)を責めて
歯止めがかかる(罪悪感が来るため)ようになると、
表現されずに放っておかれた感情は
どんどん溜まっていきます。

溜まったものは、時に膿み腐ることもある。
それは、その人自身や他者を傷つける
凶器になることもあるのです。


なぜ、責めたくなるのか、その裏側には、
どんな感情があるのか。
自分自身のそれを見つけて聴いてあげて欲しい。


子どもの言動をわがままとして受け止めず、
こちらの思う通りにさせようとすることは、
子どもの自我の発達や、自尊感情にとって
よくない結果をうむ可能性があります。


子育ては、自分育てと言いますが、まさにその通りですね。
その気になれば、いくらでも成長のチャンスがあるのです。



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by cherish-chu | 2010-02-04 15:08 | こころについて